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伝兵衛
伝兵衛
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2016年07月31日

困難な青少年のための公園inベルリン(7)

ギャングの一人が威嚇ピストルを監視カメラの前で撃った
あとで、ベルリン市下院の内務委員会は 少年ギャング団
R44と関わりを持った。ベルリン市議会議員は 警察が
ギャングに対して何ができるかを知りたかったのだ。公園の
中央にある木造の園亭「魂の楽園」は R44のお気に入りの場所だ。
「ハッサンは学校へ行けなかったので 路上で騒いでいて、
私は彼と知り合った」とフィアルクは言う。ハッサンは以前に数日 
学校へ行かなかったことがあった。彼は両親からの弁明の手紙が
必要だった。しかし両親は字を書けなかった。少なくともABCを
書くことは できなかったと ハッサンはフィアルクに話した。「私が
弁明の手紙を書き、両親は それにサインすれば いいようにした」。
ハッサンは後に監視カメラの前で 威嚇ピストルを撃った少年だ。(つづく)
下記サイトから:
http://sz-magazin.sueddeutsche.de/texte/anzeigen/44594/Garten-der-Harten

写真提供:SACHIさん  


Posted by 伝兵衛 at 17:08Comments(0)少年非行

2016年07月28日

困難な青少年のための公園inベルリン(6)

公園での規則は フィアルクの口から発せられると 詩的である。
「ときには公園へ袋を持って来る子もいる。果物を摘んで 家へ
持って帰るのだ。そういう時に 天国に袋は無いと言うて聞かせる。
天国では その日 採集したものを 食べて暮らすのだ」。
この天国に リンゴ・ナシ・スモモ・桜・スグリ・桑・マルメロ・
木苺・クルミ・ハシバミが植えられている。公園の中を小川が
流れる。池やバラ園もある。これが ソーセージ工場やスーパー
マーケットから100メーターも離れていない所にある。
公園の中の果樹園と共に、R447という少年のグループも成長した。
R44は 数年前まで トルコ系の最もナンギな少年ギャングだった。
他のギャングと 板で殴り合い、ナイフで斬り合った。(つづく)
下記サイトから:
http://sz-magazin.sueddeutsche.de/texte/anzeigen/44594/Garten-der-Harten

写真提供:SACHIさん  


Posted by 伝兵衛 at 15:22Comments(0)少年非行

2016年07月27日

困難な青少年のための公園inベルリン(5)

フィアルクの規則は:酒・薬物・大音量の音楽は いけない。芝生の
稀な草地に入ってはいけない。果実は夜に共同で摘み取る。公園では 
ないから夜は閉められる。子どもは庭に垣根をよじ登って入っても
いい。おとなが そうすると告発される。果物は両手で持てるだけの
量を持って行っていい。植物への暴力(枝を折ること、胸までの高さの
草の生えている所に立ち入ること、芽やつぼみを取ること)は禁止される。
人への暴力も禁止。しかしフィアルクは融通の効かない規則が要るとは
思わない。規則を取りやめることが 人間的であると思える場合には
フィアルクは どの規則も取りやめる用意がある。「万物は自然に
流転する。暴力は世の流れから遠いものであってほしい」と庭の門に
向き合って置かれた岩に 彼は刻みこませている。これはコメニウス
からの引用だ。(つづく)
下記サイトから:
http://sz-magazin.sueddeutsche.de/texte/anzeigen/44594/Garten-der-Harten

  


Posted by 伝兵衛 at 15:49Comments(0)こころのケア

2016年07月26日

困難な青少年のための公園inベルリン(4)

この庭に来る人には 規則・原則が適用される。ホロコーストについての
罪・人の尊厳・累進的租税制度から 女性との交際までも含む規則全体が
適用される。ドイツ人は犬を愛するなどという奇妙なことも適用される。
色々と質問した後に「私たちは しょせん そうなのだ」という以外、
他には何もないことに なる。ともかく私たちは そう行動するのだ。
「私は理由を論じ尽くし、硬い岩に到達した。私の鋤は 曲がって
しまった」と哲学者ウィトゲンシュタインは 規則を説明しようとする
試みについて述べる。説明できない規則もある。一緒に生きる他ない。
(つづく)
下記サイトから:
http://sz-magazin.sueddeutsche.de/texte/anzeigen/44594/Garten-der-Harten

  


Posted by 伝兵衛 at 17:43Comments(0)少年非行

2016年07月24日

困難な青少年のための公園inベルリン(3)

楽園の誕生にあたって、手伝った人はミヒャエル・ヴェントという
人で、当時ベルリン市庁の都市計画担当者だった。フィアルクが
公園の計画を書いた時、ヴェントは その普通でない考えに
感激した。そこで彼は420万マルクを用意し、有名な景観設計家に
依頼した。その設計家が 公園の構想を描いた。
ベルリン市庁の事務次官が その構想を珍妙すぎると考えたため 
これを拒絶したときにも、ヴェントはこの公園を見捨てなかった。
新しい事務次官が任命されるのを待ち、新事務次官が公園を
認可した。今までフィアルクの給料はベルリン市が支払っている。
フィアルクは自分の職を「世俗的牧師職」とよぶ。(つづく)
下記サイトから:
http://sz-magazin.sueddeutsche.de/texte/anzeigen/44594/Garten-der-Harten

  


Posted by 伝兵衛 at 18:20Comments(0)少年非行

2016年07月23日

ホームレスへの支援inバルセロナ

ホームレスフォント:路上生活者を集めて字を書いてもらう
ワークショップを行い、その字体をスキャンし、デザイナーの
協力を得て、「ホームレスフォント」というウェブサイトが生ま
れた。そこには、路上生活者の顔写真・人生の物語と彼らの
アルファベットが「フォント」という商品として載り、販売される。
フォント料は路上生活者個人に入るのではなく、財団の活動
資金になるが、「自分の字が印字されたワインボトルが店頭に
並んだところを見て、役に立てたという喜びでワクワクした」と
提供者のロレーヌは言う。下記サイトが Homelessfonts:
http://www.homelessfonts.org/

ホームレスの案内によるバルセロナ観光ツアもある。手に職が
あるのに失業し、路上生活になった人々の前職を生かし、
元料理人による市場同行ツアなど。料金は15ユーロ。
路上生活者も、助ける方も、社会も、慈善事業という枠組みを超え、
お洒落で楽しいことをしようという考え。
以上、大野ゆり子、”バルセロナの窓から ホームレスのための
ユニークな支援”月刊 中央公論、2016年8月号、P.182~183 
から抜粋。もとの記事を買って読んでね。

写真は秋葉町にあったダルクの隣家のジャスミン。
道路拡張のため庭も消え、野良猫は南の集合住宅の
空き地や 秋葉山で過ごしてます。

  


Posted by 伝兵衛 at 19:34Comments(0)路上生活

2016年07月22日

困難な青少年のための公園inベルリン(2)

しばらくすると、広場を無茶苦茶にした子ども達が 彼を手伝い始めた。
それは 聖書の出てくる光景のようだった:30人以上のアラブ人・
トルコ人・クルド人の子どもが 髭をたくわえた大男の後ろを
走っている。子ども達は スミレを抱えている。
フィアルクの公園は 1968年のプラハの春の頃、まだ石ころだらけの
場所だった。ノイケルンの人々はドゥブチェクを歓迎した。それが
ドゥブチェクがドイツに来た最後だった。その後、彼は自動車事故で
亡くなった。
フィアルクは身長2メータ。手のひらは子どもの頭よりも大きい。
彼の忍耐・正義感覚・怒りは 旧約聖書の族長を思わせるものがある。
彼は67歳で、フレンスブルク出身。ノイケルンに30年以上住んでいる。
フィアルクは この公園によって 公園としての魂を実現したい。
フィアルクは この考えを哲学者 ヨハン・アモス・コメニウスから得た。
コメニウスにとって魂とは公園である。公園は神によって設置され、
教育により完成される。コメニウスによると 優れた公園の中に
人は自然を完成させる。暴力もなく、優しく完成させる。フィアルクは
この公園を「コメニウス・ガルテン」と名づけている。彼自身は
これを楽園と呼ぶ。(つづく)
下記サイトから:
http://sz-magazin.sueddeutsche.de/texte/anzeigen/44594/Garten-der-Harten


  


Posted by 伝兵衛 at 16:55Comments(0)少年非行

2016年07月18日

困難な青少年のための公園inベルリン(1)

ベルリンのノイケルンに2100坪の平地があり、その土地で一人の高齢の
男が驚くべきことを企てている:その地域に住む全ての困難な青少年の
ための救いの場にしようと言うのだ。
庭の主は Hennig Vierck。フィアルクはスモモ(樹齢20年)の下に
座って語った:
フィアルクがこの事業を始めたのは20年以上前だった。当時2100坪の
土地はガレキ置き場になっていて、近所の人が駐車場として使って
いた。彼が最初に注文したのはスミレだった。4000本のスミレの苗を
買った。公園が始まったとき、大きなスミレの花壇に誘われて人が
来たと言われている。
しかしスミレの花苗を植えた次の朝に 数千のスミレの苗が あちこちに
撒き散らされた。近所の数人の子どもが夜に木の柵を超えて、スミレを
公園のできるだけ広い範囲に撒いたのだ。
フィアルクは この有様を見て、落ち込んだ。大学での職に戻ろうと思った。
しかし ついに引きぬかれて 撒き散らされたスミレを一本ずつ拾い始めた。
犯人である子ども達は彼の行動を見ていた。彼は子ども達に」「スミレを
抜いて、撒き散らすのは楽しいだろうが、スミレを集めるのも また
楽しいもんやでぇ」と言った。(つづく)
下記サイトから:
http://sz-magazin.sueddeutsche.de/texte/anzeigen/44594/Garten-der-Harten

  


Posted by 伝兵衛 at 16:45Comments(0)少年非行

2016年07月17日

育児放棄・児童虐待(14最終回)

精神(心理)療法を今まで受けたことは ない。子どもの頃 長い年月、
私は抑圧されていた。しかし多くのことを処理しなければならないと
いうことは知っていた。母のようには なりたくなかった。生き延びる
ことは ここから出ないといけないということだった。家出によって
希望に満ちた生活を送ることができるのだ。家出していなければ、
とっくの昔にヘロインの過剰摂取によって死んでいただろう。
今、4歳の息子がいて、二番目の子を妊娠している。自分の子どもを
決して殴らないと誓っている。殴ったら 何が起きるか知っているから。
自分の生活を極端なものに しないと誓った。子どもの頃に
うまく行かなかったから、それだけ後あとに強くなれる。場合に
よっては逃げることを学べと母は教えてくれた。全ての人が私と
同じように強いとは限らない。そういいうことにぶつかって、壊れて
しまう人もある。子どもの頃、本当にひどい状態だったから、
自分の人生を普通にすることは できないと 人が言うなら、
それは どうしようもない。(おしまい)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-4

写真提供:SACHIさん  


Posted by 伝兵衛 at 14:55Comments(0)児童虐待

2016年07月16日

エイミー・ワインハウスの映画

日本経済新聞2016年7月15日(金)夕刊から抜粋:
見出し:成功の裏で崩壊する歌姫。
(ライター:岩永久美さん)
「AMY エイミー」は 27歳で酒と薬物のため無残な御最期をとげた
歌手についてのドキュメンタリー映画。
作品の中心には 彼女がマスメディアに登場して時の映像や友人が
撮ったフィルムが使われている。更に マネジャー・友人・両親・
ドラッグカウンセラーなど関係者のコメントが織り込まれている。
音楽好きなだけの まともな女性が薬物でボロボロになってい
く痛ましいプロセス。
彼女の人生後半はスターの転落でもあったが、不運な環境で
個人が もがいていたケースであり、助けようと思えば助けられた。
本作は安易な同情より無念の想いを誘う。人を見る眼の温かさと、
奥行きを持った作品だ。2時間8分。
7月16日からシネ・リーブル梅田ほかで上映。

写真は エイミーが好きだった和歌山ダルクのスタッフ。  


Posted by 伝兵衛 at 18:47Comments(0)薬物依存症体験談

2016年07月14日

育児放棄・児童虐待(13)思い出す恐怖

そのうえ母は自殺する危険が高かった。ひょっとすると 自殺
すると言う言葉は圧力をかけるための手段だったのかも知れない。
少なくとも私の姉を 母のもとに留めておく手段だった。母がいなく
なった場合に 私は祖父に渡すことになっていると書いた手紙の
入った封筒を 母は私に 度々見せた。封をしているので手紙の
内容は分からない。母は もう覚えていないので、これら全てを今は
否認するだろうと私は思う。母にとって私は世界一の大嘘つき
だった。だから母は決して謝らないだろう。
今も なお強い不安を感じている。かつては死への不安だった。今は
思い出す不安だ。一人ぼっちにされていた記憶。誰も私と かかわって
くれなかった不安。食べ物を与えられなかった不安。誰も私を
シャワーで洗ってくれなかった不安。衣服が汚れてしまっていた
不安。母は私のためには いないのだから、私はもう存在できない
という不安。こういう不安を思い出す。完全に一人ぼっちにされる
という感じである。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-4

写真提供:lovefreePhoto  


Posted by 伝兵衛 at 16:54Comments(0)児童虐待

2016年07月13日

育児放棄・児童虐待(12)誰の責任か?

私の不運を誰のせいだと 言えるのか。母はハンブルクへ引っ越すことに 
よって私の祖父母から完全に離れたのだから、祖父母のせいだと言う
ことは できない。そもそも他人が悪いと言うならば、私たち二人の
子どもの叫ぶのを聞きながら何の反応もしなかった近所の人たちに
罪がある。人は よく見て、よく聞いていなければ ならないのだ。
最近、近所の人が妻を殴ったとき、私は警察に電話した。こういう
ことは 同胞の義務である。とは言うものの、誰かが半分 死んだら、
やっと役所で何かが起きるというような感じが 私には する。
罪は確かに青少年局にある、青少年局の報告書によると 私たち
二人の子どもはマイナス10度の中を 上着も靴下も無しに、車で
運ばれていたとき、青少年局は何の反応もしなかった。あの時なぜ
誰も介入しなかったのか?なぜ誰も 私達を母から引き離さなかった
のか?この母は 子どもを養育できるとは とうてい思えない
母だったのだ。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-4

  


Posted by 伝兵衛 at 15:39Comments(0)児童虐待

2016年07月12日

育児放棄・児童虐待(11)薬物を使う子どもの居る施設へ

その頃 一時収容施設に入った。そこは 最も荒廃した家庭から来た 
壊れた子どもが入る収容所だった。12,13,14歳の入所者の全てが
薬物をしたことがあった。その次に ハンブルクで2年間 支援つきの
寮で過ごした。14歳の時、ミュンヘンにいる父のところへ引っ越した。
18歳でまた そこから引っ越した。
この時代に 当然のことながら 学校からは離れていた。基幹学校
(義務教育後半の課程、第5~9学年。進学高校へ行かない生徒の
ためのもの)の卒業資格を後になって やっと取った。子ども養育士の
資格を取った。今は実業中等学校の教師をしていて、難民の子どもに
ドイツ語を教えている。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-3

写真提供:SACHIさん  


Posted by 伝兵衛 at 17:14Comments(0)

2016年07月11日

赦し とは

深井智朗(ふかい ともあき・ドイツ宗教思想史)、”ヒラリー・クリントンを
慰めたティリヒの説教”、月刊「図書」2016年7月号 p.20~24 から抜粋:

パウル・ティリヒ(1886~1965)はフランクフルト大学の哲学部長であったが
ナチスによって停職処分され、アメリカに亡命し、ついにはハーバード大学
教授となった。前世紀を代表する神学者。
深井智朗、”パウル・ティリヒ「多く赦された者」の神学”、岩波現代全書、
2016年 は 性的依存症であり、歩けなくなるまで強い酒に溺れる 
社会性の欠如したティリヒを紹介する。
(★ブログ管理人の蛇足:和歌山ダルクにアルコール依存症者も処方薬
依存症者も来てくれています。ティリヒは大酒飲みでありながら 長生き
された。多くの依存症者は短命です)。

ティリヒは 自分がいかにして救われるか、ということにこそ関心があった、
との仮説に基いて彼の人生と思想を 上記の本は再構成した。
人間の罪を、キリストにおける贖罪に示されているとおり、どんなことを
してでも赦し、救いの約束を誠実に守ろうとする神自身の真実に出会う時、
それに応答する信仰を持ち、正しい生き方をするようになる。それが
「信仰義認」の本来の解釈であろう。
しかしティリヒはこれを自由に解釈し、独特な理解を展開した。と言うのも
彼は、「自分自身でも受け入れることができないような自己を、「それにも
かかわらず」赦し、受け入れ、救おうとする神がいるということ、あるいは
彼の言葉で言えば「そのような神の側の真実」があることに、自分が生きて
いられる理由を見出していたからである。
人間は完全な赦し、受容という経験なしに生きてゆくことは できないので
あり、それを救いと呼ぶのだと彼は主張し続けた。
彼は1960年に来日し、大谷光紹(こうしょう)と対談した。大谷は真宗大谷派の
法嗣(法主後継者)であった。大谷はコロンビア大学に留学し ティリヒと親しく
なった。この対談において 彼は過ち多き人間を「それにもかかわらず」神は
赦し、受け入れるという、ルター派の伝統的な信仰義認を大きく逸脱する
ような自らの考えの普遍性を確信したようだ。
彼は「信仰義認」と「他力本願」は同じものでは ないが、誤解のされ方と
それへの対処法について同じであるという結論に至った。
完全な赦しや受容が もし可能であるとすれば、それはただ超越的な存在に
よる完全な赦し以外にはないと確信していた。だからこそ人間にできることは
受け入れられたことを 受け入れることだと考えたのである。それはキリスト教の
伝統や教義との整合性よりは 彼自身の魂の救いを優先させた、極めて
自己中心的な主張であった。しかしそうでなければ 彼は生きて行けなかった。
そして彼は自分が赦されたように他者を赦した。それが彼の生き方だった。
彼は自分自身のために説教をした。「...あなたは あなたよりも大いなる
ものによって、受け入れられている。...今は何もしなくてもよい。おそらくは
後になって多くのことを するのだから。何も求めず、行わず、意図せずに、
ただ自分が受け入れられたという事実を受け取れ」。

  


Posted by 伝兵衛 at 08:52Comments(0)こころのケア

2016年07月10日

災害メンタルヘルス・ シンポジウム

(場 所)和歌山県民文化会館 小ホール
     〒640-8269 和歌山市小松原通り一丁目1番地
(趣 旨) 災害時のメンタルヘルス、減災・防災に備えるために、共に考える。

■第1部 シンポジウム『その時、何ができるか』
13:10頃~14:40頃
・木下 忠恭(office‐K 所長)
・厚坊 浩史(NPO法人心のSOSサポートネット副理事長 臨床心理士 )
・松岡 信一郎(和歌山市保健所 精神保健福祉士)
・山口 昭昌(エフエム和歌山理事長)
司会:東 睦広(NPO法人 心のSOSサポートネット理事長)

■第2部 教育講演『南海トラフ巨大地震に備えて何をするべきか?
― 熊本地震での災害医療救護活動を経験して ― 』
14:55頃~15:55頃
講師:中 大輔 (日本赤十字社和歌山医療センター 
神経救急部部長 医療社会事業部部長)
■第3部 特別講演 『大規模災害とこころの健康 
~災害に学び、明日に備える~』16:00頃~17:00頃
講師:高橋 祥友 (筑波大学医学医療系精神支援学
 教授 医学博士 精神科医)

(敬称略)
(対 象) 一般向け。
(募集人数) 320名(先着順)
(費 用) 無料。
(申 込) 必要。メール、郵送、FAXにて受付。
【参加申込み方法】
「災害メンタル講座申込」①~⑤を記載の上、メール・FAX・郵送でお申込ください。
◆メール・郵送 
タイトル:「災害メンタル シンポジウム申込」係
①代表者氏名(ふりがな)
②以前NPO法人 心のSOSサポートネットの事業に参加したことが 
ない・ある(受講講座名)
③代表者住所(市町村名まで、番地不要)
④職業・勤務、資格等(あれば)
⑤電話番号
⑥メールアドレス
⑦グループ申込み可。その場合は代表者の他に参加者名を人数分明記。

◆FAX 申込面に記入の上 050‐3730-2286(FAX専用)
※一部コンビニのFAXの中には050番号へ送信不可の機種があるそうです。
ご確認の上その時は、メールかハガキでのお申込みをお願いいたします。
頂いた情報は受付にて使用します。空席のある場合、先着順で当日受付
を行うことがあります。

なお、申込受理のお返事は行っておりません。定員を超えた場合のみ、
ご連絡させていただきます。
最新の情報はホームページからも発信いたします。
http://cocosapo.net/

  


Posted by 伝兵衛 at 14:57Comments(0)こころのケア

2016年07月10日

ホームレス川柳

盆がくる 俺は実家で仏様、藤太

この句は「路上のうた ホームレス川柳」700円 より。
職も住居も失った路上生活をうたった六人の合同句集です。
この文庫サイズの句集は「ビッグイシュー」という雑誌と
一緒に街角・橋詰・駅前などで売られている。
やむなく家郷と縁が絶え、もはや生きては いまいと
弔われていよう、そんな述懐が後輩たちの再起の糧となる。
以上 月刊「みすず」2016年7月号 巻頭・表紙の裏から抜粋。

★薬物・アルコール依存症者のいる「実家」では 実家の
持ち主である親が 依存症者を避けるために 家を出て
別の場に引っ越すことが あります。せっかく引越しても
依存症者が 半年もしたら 場所を探りあて、親は又
逃げたりします。
うちの近くでは 親が三度目の引越の末、やっと安全に
暮らせたという例がありました。(十年以上前のことで
ダルクと無縁の事件でした)。
引越を繰り返す親の弱みに つけ込み、「引越しを手伝って
やるから 息子のサラ金からの借金をまとめて 俺に引受
させよ」と 悪徳金貸し業者に 言われて だまされました。
この業者を相手に過払い金返還請求をしたら 自分の
所在が息子にバレて追われるかも知れないという恐怖の
ため 返還請求もできない。

  


Posted by 伝兵衛 at 08:55Comments(0)路上生活

2016年07月08日

育児放棄・児童虐待(10

私は裁判で証言しなければ ならなかった。その後2年間、週に一度 
鑑定人のところへ行った。鑑定人は 私の母が極端な人格障害を
もつと判断した。そして私は もう家へ戻らなくてもいいという決定を
鑑定人はした。二番目の娘についても 保護養育権を取り上げられる
危険が迫って、母は失踪した。ずっと後に母がロッテルダムに潜んで
いると言うことを知った。今も母はそこに居る。しばらく前に やっと
母と連絡がとれた。しかし連絡のとれたことは破滅的だった。昔の
生活と同じく破滅的だった。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-3

写真提供:SACHIさん  


Posted by 伝兵衛 at 17:27Comments(0)児童虐待

2016年07月07日

育児放棄・児童虐待(9

幸運にも母の妨害は うまく行かなかった。私は青少年局の
代理人に 私の言い分を話さなければならなかった。幾度も。
母が保護養育権を失うことになれば 私には悪いことが起きるぞと
繰り返し母は 私を脅した。有り難いことに 青少年局の職員は
理解してくれて、私を母から離してくれた。母は保護養育権を
まだ持っては いたが、私がどこに住むかについて もはや母は
決定権を持たなかった。私は家へ戻されるという不安で一杯だった。
私を他のどこかへ引き渡すくらいなら、私が死んでくれた方が
良いと母は言うたそうな。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-3

写真提供:SACHIさん
  


Posted by 伝兵衛 at 20:51Comments(0)児童虐待

2016年07月06日

回復への経過・木津川ダルクから

木津川ダルクのフェイスブック6月15日のカキコミを 同ダルクの
ご了解を得て、貼り付けさせていただきます:
★自分も変わりたい!仲間からのメッセージ

ここに来て、もう1年4か月。自分でもここにいると言う現実に冷静に考える
と信じられません。産まれて初めて手錠をかけられた時、「なんで、俺が…。」
と、思った反面、「やっと終わった。」と、思いました。今までの人生を振り
返ってみると、クスリと出会ってからクリーンと呼べる期間はありません
でした。もう、約十年以上の時間が過ぎていました。覚醒剤に出会った
のも必 然的な運命だと思います。

小さいころは、体も小さく、弱く、精神的にも弱い子供でした。だから、自分を
守る為に、スポーツで自分を表現したり、周りに合わせて笑ってたような
気がします。とりあえず、良い位置にいようと必死でした。中学生になると、
サッカー、万引きなどで、自分の立ち位置を守り、煙草をふかし、高校に
入ると、サッカーを簡単に辞め、スケボー、煙草、バイク、ファッション、
夜遊び などを適当にこなし、適当に停学になり、適当に卒業しました。
当時から、マリファナ、覚醒剤を使う友達はいましたが、マリファナは
身体に合わず、覚醒剤は、さすがに怖かったし、「覚醒剤やめますか?
人間やめますか?」というCMが強烈すぎて、やる気になれませんでした。
かと言って酒も全く受けつけず、自分と薬物は無縁の人生だと思って
いました。思えばその時に手を染めておけば、傷は浅かったかもしれ
ません。合法ドラックと言われるクスリに出会ったのは二十代半ばでした。
初めてキマるという快感を覚えてからは、クスリは人生の一部になって
いました。そのころ覚えた合法ドラックは、ほとんど覚醒剤に近かった
ように思います。合法ドラックが違法になり たどり着いたのは覚醒剤でした。

逮捕されたとき、周りに残っていたのはアディクトだけでした。アディクト
同士で仕事をして、 アディクト同士で遊び、アディクト同士で生活して
いました。完全に共依存の関係でした。そのしがらみは、木津川ダルクに
来てからも消えませんでした。かたち上、ひとり親方だった僕は途中で
ケツ割るなと一番仲の良かった先輩に詰められました。留置所で祖母の
死を知り、木津川ダルクに行くと決心し、生き方を変える決断をしました。
話し合いには、施設長に付いて来てもらいました。結局、話に折り合いが
つかないまま帰っていきました。

木津川ダルクの仲間はその時温かく声をかけてくれました。今は出て
行った仲間や、刑務所に行った仲間もいますが、僕を受け入れてくれた。
それがここに残った一番の理由かもしれません。

木津川は本当に田舎で、京都とありますが、ほとんど村に近いところ
です。最初はここの生活が苦痛で、親にお金を手紙と一緒に送って
もらったり、昔の後輩の家に金を借りに行ってパチンコに行ったり、
スリップもしました。でも『俺何してんのかな…』と気づくようになりました。
それを気付かせてくれたのは、共に生活をしている仲間でした。ほぼ
刑が確定しているのに、ボランティ アに行ったり、しょうもない劇
『すみません(笑)』を真面目にやったり、何より良い奴でした。

あとは先ゆく仲間の姿がかっこよく見えたからですかね。クスリを断ち、
素の自分で精一杯、今日だけを体現している仲間を見て、心のどこかで
『自分も変わりたい』と思いました。基本的に自分の性格、思考は
まだ変わっていません。すぐに落ち込んだり、すぐに怒ったり、人を
裁いたり、 不平不満を抱えたり…
でも、今まですぐギャンブルやクスリに逃げていた、狂った回路を冷ます
方法を少しずつ手に出来ました。いつも『これくらいはいいだろう』そう
やって自分を誤魔化し、自分から逃げてきました。
考えたらまだ何も終わってないし、始まってもない(笑)遅すぎるかも
しれませんが今日だけこの田舎から、一歩ずつ進んでいきたいと思います。
Nori





  


Posted by 伝兵衛 at 09:07Comments(0)薬物依存症体験談

2016年07月05日

育児放棄・児童虐待(8

目覚まし時計を深夜1時にセットしていた。リュックサックに物を
詰め、寝ている姉のところへ行き、「これから家出するぞ」と
言った。姉がなぜ私の誘いを拒否したのか今も分からない。
おそらく姉は不安だったのだ。私が本気で家出するつもり
だったことを姉は疑っていたのかも知れない。いずれにせよ
姉は一緒に家を出なかった。
姉と話し合う時間はなかった。私の決心に従うだけだった。
冬だった。リュックサックだけ持って出た。リュックサックの中に
は あまり大事な物は入っていなかった。しかし それが
全所有物だった:ウォークマンと縫いぐるみの犬。
母から20マルク盗んで家を出た。これは私の新生活の
第一歩にとって必要な金だった。雪の中を歩いて、テレホン
カードを一枚かった。公衆電話ボックスに入って、電話帳を
見て、児童青少年緊急サービスに電話をかけた。こういうこと
全部を自然にできた。その時まで そういうサービスがある
とは まったく知らなかった。緊急サービスは 未明なのに
母に知らせた。母はすぐに来て、私の腕や髪の毛を掴んで
家へ連れ戻そうとした。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-3

写真提供:SACHIさん  


Posted by 伝兵衛 at 16:06Comments(0)児童虐待