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伝兵衛
伝兵衛
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2016年07月17日

育児放棄・児童虐待(14最終回)

精神(心理)療法を今まで受けたことは ない。子どもの頃 長い年月、
私は抑圧されていた。しかし多くのことを処理しなければならないと
いうことは知っていた。母のようには なりたくなかった。生き延びる
ことは ここから出ないといけないということだった。家出によって
希望に満ちた生活を送ることができるのだ。家出していなければ、
とっくの昔にヘロインの過剰摂取によって死んでいただろう。
今、4歳の息子がいて、二番目の子を妊娠している。自分の子どもを
決して殴らないと誓っている。殴ったら 何が起きるか知っているから。
自分の生活を極端なものに しないと誓った。子どもの頃に
うまく行かなかったから、それだけ後あとに強くなれる。場合に
よっては逃げることを学べと母は教えてくれた。全ての人が私と
同じように強いとは限らない。そういいうことにぶつかって、壊れて
しまう人もある。子どもの頃、本当にひどい状態だったから、
自分の人生を普通にすることは できないと 人が言うなら、
それは どうしようもない。(おしまい)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-4

写真提供:SACHIさん  


Posted by 伝兵衛 at 14:55Comments(0)児童虐待

2016年07月14日

育児放棄・児童虐待(13)思い出す恐怖

そのうえ母は自殺する危険が高かった。ひょっとすると 自殺
すると言う言葉は圧力をかけるための手段だったのかも知れない。
少なくとも私の姉を 母のもとに留めておく手段だった。母がいなく
なった場合に 私は祖父に渡すことになっていると書いた手紙の
入った封筒を 母は私に 度々見せた。封をしているので手紙の
内容は分からない。母は もう覚えていないので、これら全てを今は
否認するだろうと私は思う。母にとって私は世界一の大嘘つき
だった。だから母は決して謝らないだろう。
今も なお強い不安を感じている。かつては死への不安だった。今は
思い出す不安だ。一人ぼっちにされていた記憶。誰も私と かかわって
くれなかった不安。食べ物を与えられなかった不安。誰も私を
シャワーで洗ってくれなかった不安。衣服が汚れてしまっていた
不安。母は私のためには いないのだから、私はもう存在できない
という不安。こういう不安を思い出す。完全に一人ぼっちにされる
という感じである。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-4

写真提供:lovefreePhoto  


Posted by 伝兵衛 at 16:54Comments(0)児童虐待

2016年07月13日

育児放棄・児童虐待(12)誰の責任か?

私の不運を誰のせいだと 言えるのか。母はハンブルクへ引っ越すことに 
よって私の祖父母から完全に離れたのだから、祖父母のせいだと言う
ことは できない。そもそも他人が悪いと言うならば、私たち二人の
子どもの叫ぶのを聞きながら何の反応もしなかった近所の人たちに
罪がある。人は よく見て、よく聞いていなければ ならないのだ。
最近、近所の人が妻を殴ったとき、私は警察に電話した。こういう
ことは 同胞の義務である。とは言うものの、誰かが半分 死んだら、
やっと役所で何かが起きるというような感じが 私には する。
罪は確かに青少年局にある、青少年局の報告書によると 私たち
二人の子どもはマイナス10度の中を 上着も靴下も無しに、車で
運ばれていたとき、青少年局は何の反応もしなかった。あの時なぜ
誰も介入しなかったのか?なぜ誰も 私達を母から引き離さなかった
のか?この母は 子どもを養育できるとは とうてい思えない
母だったのだ。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-4

  


Posted by 伝兵衛 at 15:39Comments(0)児童虐待

2016年07月08日

育児放棄・児童虐待(10

私は裁判で証言しなければ ならなかった。その後2年間、週に一度 
鑑定人のところへ行った。鑑定人は 私の母が極端な人格障害を
もつと判断した。そして私は もう家へ戻らなくてもいいという決定を
鑑定人はした。二番目の娘についても 保護養育権を取り上げられる
危険が迫って、母は失踪した。ずっと後に母がロッテルダムに潜んで
いると言うことを知った。今も母はそこに居る。しばらく前に やっと
母と連絡がとれた。しかし連絡のとれたことは破滅的だった。昔の
生活と同じく破滅的だった。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-3

写真提供:SACHIさん  


Posted by 伝兵衛 at 17:27Comments(0)児童虐待

2016年07月07日

育児放棄・児童虐待(9

幸運にも母の妨害は うまく行かなかった。私は青少年局の
代理人に 私の言い分を話さなければならなかった。幾度も。
母が保護養育権を失うことになれば 私には悪いことが起きるぞと
繰り返し母は 私を脅した。有り難いことに 青少年局の職員は
理解してくれて、私を母から離してくれた。母は保護養育権を
まだ持っては いたが、私がどこに住むかについて もはや母は
決定権を持たなかった。私は家へ戻されるという不安で一杯だった。
私を他のどこかへ引き渡すくらいなら、私が死んでくれた方が
良いと母は言うたそうな。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-3

写真提供:SACHIさん
  


Posted by 伝兵衛 at 20:51Comments(0)児童虐待

2016年07月05日

育児放棄・児童虐待(8

目覚まし時計を深夜1時にセットしていた。リュックサックに物を
詰め、寝ている姉のところへ行き、「これから家出するぞ」と
言った。姉がなぜ私の誘いを拒否したのか今も分からない。
おそらく姉は不安だったのだ。私が本気で家出するつもり
だったことを姉は疑っていたのかも知れない。いずれにせよ
姉は一緒に家を出なかった。
姉と話し合う時間はなかった。私の決心に従うだけだった。
冬だった。リュックサックだけ持って出た。リュックサックの中に
は あまり大事な物は入っていなかった。しかし それが
全所有物だった:ウォークマンと縫いぐるみの犬。
母から20マルク盗んで家を出た。これは私の新生活の
第一歩にとって必要な金だった。雪の中を歩いて、テレホン
カードを一枚かった。公衆電話ボックスに入って、電話帳を
見て、児童青少年緊急サービスに電話をかけた。こういうこと
全部を自然にできた。その時まで そういうサービスがある
とは まったく知らなかった。緊急サービスは 未明なのに
母に知らせた。母はすぐに来て、私の腕や髪の毛を掴んで
家へ連れ戻そうとした。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-3

写真提供:SACHIさん  


Posted by 伝兵衛 at 16:06Comments(0)児童虐待

2016年07月02日

育児放棄・児童虐待(7

私が近所の少年を好きになったとき、母は警告した:あれは
将来、ヒモになる。母には分かるのだ。もう二度と彼に
会ってはならぬ。
私が母の警告を無視したとき、母は私を部屋に閉じ込めた。
幼いときに閉じ込められたときと同じように、水の入った
ジョッキとバターもジャムもついてないパンが部屋にあった。
母は脅した:「14歳になるまで そこに居るんだ」。母は攻撃的に
なった。たとえば私が買物に行って、間違った物を買って
きたら、母は暴力を振るった。
私は完全に閉じ込められていた時期があった。玄関のドアは
母が閉めていた。そうはしたものの、火事が起きたら危険だと
いうことは 母にも分かっていた。そこで私が寝ている間は
玄関のドアと部屋のドアに鍵をかけないことに 母は決めた。
そのお陰で 12歳のとき ある夜、私は家を出られた。
私が部屋に閉じ込められていないと いけない理由を 母は
私の家出の前に 幾時間も語り聞かせた。私は抵抗し、反論
した。なぜなら 私はどうしても家を出ていかなければならない
と分かっていたから。
私を促したのは ひょっとしたら生き延びるための本能だったのだ。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-2

  


Posted by 伝兵衛 at 17:56Comments(0)児童虐待

2016年07月01日

育児放棄・児童虐待(6

母は ほとんど金がなかったのに、外へ出るときは ちゃんと
した身なりをしているように見えた。私も12歳のとき Tシャツ
一つとズボン一つしか持っていなかったのに、身なりは 
まともだった。人形みたいだった。私達はゴミの山の中で
生きていた。私がハンブルクのエリート進学校に通っていると 
母は言い張っていたから、私は ゴミ屋敷にいると言うことを
認められなかったのかも知れない。そして同級生は 私が
困難な環境にいることを知っていた。
12歳のとき もはや耐えられなくなった。人形でいることと、
家で経験していることとの間の綱渡りを することに もはや 
耐えられなかった。思春期になったとき 私は自分自身の
考えを持つようになり、母に反論した。母にとってそれは 
由々しいことだった。私は 母にとって悪いイメージになった。
それから 母は 私と話しすると言い張るようになり、私は
幾時間もの間、母の独白を聞かねばならなかった。他の
子どもの家に行って 初めて 私の家は普通でないという
ことを理解した。(つづく)
以上 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-2

写真提供:SACHIさん
  


Posted by 伝兵衛 at 13:00Comments(0)児童虐待

2016年06月29日

育児放棄・児童虐待(5

母は魂を病んでいた。母は一日中 アパートで裸で座って、
部屋の隅を見つめていた。母は申し分のない生活を送って
いるのだと思い込んでいた。私については申し分のない娘
だと思い込んでいた。しかし実際は 家の中はまったく混乱
していた。母は外に向けては完全な体裁をつくろっていた。
私たちの家庭がどのような状態であるか 誰も気づかなかった。
母が姉について何を望んでいたかを 姉は理解できなかった
が、姉はもっと苦しんでいた。姉は耳が聞こえなかった。しかし
人の唇を読むことは できたし、言葉を発することもできた。
姉は家を出たいといつも言うていた。
以上は下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337
以下 下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337-2
しかし母を非難する気はない。母は心を病んでいた。母は ただ
自分のことを貴い人だと思っていただけだ。他人の意見を母は
受け入れることが できなかった。別の意見をもつ人は 基本的に
悪い人だった。母は自分のために助けを求めることは しなかった。
しかしながら母は子ども達を 甚だしく極端なやり方で愛して
いたのだと 私は信じている。(つづく)

  


Posted by 伝兵衛 at 17:36Comments(0)児童虐待

2016年06月28日

育児放棄・児童虐待(4

母は迫害妄想に苦しんだ。母は完全にカプセルの中に閉じ
こもり、防壁をめぐらし完全な世界の中で 自分を守った。
自分の描いた世界の中に、進学校にいたというエリート意識を
もって 隠れた。家の留守番電話のメッセージは次のような
ものだった:「もしもし こちらは天才です。天分の豊かな人
だけが 話しすることができます」。
母は 私には私が一番きれいで、一番よいと言った。他の
人はすべて醜く、悪いのだとも言った。当然、私は長い間
そのようにして育った。母は私をモデルや女優になるようにと
言い、その他のあるべき姿にも追い込んだ。もし私が子ども
モデルとしてデビューしたとしたら、良かったのかも知れない。
私は髪を櫛でとかした。けれど母は二人の子に からだの
衛生について教えなかった。子どもの頃、2回だけ歯を 
みがいたことは ある。それでも今 歯があるのは奇跡だ。(つづく)
下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337

写真提供:sachiさん  


Posted by 伝兵衛 at 15:36Comments(0)児童虐待

2016年06月27日

育児放棄・児童虐待(3

それから私達二人のこどもは 初めて児童養護施設に入った。
半年そこにいた。それから家に戻った。なぜ戻ったか?私には
今も分からない。母は薬物を使っていた。アパートの部屋中に
錠剤が散らばっていた。色んな男がアパートに出入りしていた
のを覚えている。母は私達の見ている前で 彼らとエッチしていた。
私たち二人はベッドの傍に立って、騒ぎを見つめていた。実は
母は長続きする関係を望んでいたが、どの男も2~3週間以上 
いたことはなかった。それで母は暗い穴に落ち込み、攻撃的に
なった。母は自分の招いた失望を 自分の中に留めている
ことが できなかったので 攻撃的になった。
近所の人たちは段々と圧力を強め、私たち二人の子どもに 
少しは良い環境を作ろうと努力してくれた。その結果、母は
脅されているように感じた。その後母は自分の身内との接触を
完全に絶ち、二人の子を連れてミュンヘンからハンブルクへ
逃げた。そのとき私は8歳だった。(つづく)
下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337

写真提供:asamaさん  


Posted by 伝兵衛 at 17:33Comments(0)児童虐待

2016年06月26日

育児放棄・児童虐待(2

母は繰り返し 二人の子を児童養護施設に一時的に預けた。
施設にいて楽しかったことは なかったと今も思う。施設は
世話してくれて、食事も出してくれたけれど 子どもは 誰も
施設に心を感じていなかった。いつも母のところへ戻りた
かった。今 思えば それが普通だ。
母は二人の子持ちだったのに、青春時代を取り戻そうと
努力するヒッピーだった。二人の子が赤ちゃんだった頃も 
母はしばしば家にいなかった。子どもは 母がどこにいる
のか知らなかった。私は その頃のことを 覚えてはいない。
しかし誰も子どもの面倒をみないので 子どもが泣き叫ぶ
のを聞いたと隣人たちは証言している。
あるとき母は数日間 いなくなった。母はインドへ行く気に
なったのだろう。母は台所に水を入れたジョッキを一つ置いて、
子どもが喉の渇きで死ぬことのないようにした。私が一歳、
姉が二歳だった。当然のことながら、二人は泣き そして
わめき始めた。隣人は警察を呼んだ。隣人の証言と医師の
報告によると、私たち二人は破滅的な衛生状態にあった。
幾日も オシメを替えていなかったようだ。しかしどれくらいの
日にち 二人が放っておかれたのか 誰も分からなかった。
母は戻ってきたとき 子ども二人がいないので 驚いた。
子どもが どんな危険な状態にいたか 母は分かって
いなかったのだと 私は今 思う。(つづく)
下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337

  


Posted by 伝兵衛 at 19:03Comments(0)児童虐待

2016年06月25日

育児放棄・児童虐待(1

私は1984年に生まれた。姉を生んだとき母は18歳だった。私は 
その一年後に生まれた。私の父と姉の父は 別だ。後で母が言う
ていたが、妊娠は二つとも妊娠しようと計画したものでない。私たち
二人の子が幼かったころ、ミュンヘンで 2室あるアパートに住んで
いた。母はギムナージウム(高校)に席を置いていたが卒業試験
には合格していなかった。働かなかったから 金はなかった。私達の
アパートの大きい方の部屋は ときには イギリスの留学生に
貸していた。その部屋に6人の留学生が居たこともある。そのとき
私達家族三人は 小さい方の部屋にいた。
母の負担は重すぎた。私の姉は耳が聞こえない。だから余計に
母に負担がかかった。ときには 母は 私達の父親二人に電話
して、子どもを迎えに来てと言うていた。私の幼いころ 父は私
の母にとって悪人だった。母は父が私に接触するのを禁じた。
父は私と会おうと努力した。裁判によって までも 父は私と
接触しようとした。しかし父は婚姻上の父親でないので 当時は
私と接触する機会がなかった。(つづく)
下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/vernachlaessigte-tochter-ich-weiss-nicht-ob-ich-ueberlebt-haette-wenn-sie-aufgewacht-waere-1.3035337

写真は 南海電車 孝子駅の近く。この山の下へ 一昨年
蛍を見にいった。今 その川は パイパス工事で潰れた。
去年は 湯浅へ蛍を見にいけた。今年は もう蛍の季節は
過ぎた。  


Posted by 伝兵衛 at 08:11Comments(0)児童虐待

2015年07月07日

子どもの虐待防止を考える・講演など

日時 2015年7月30日(木) 午後2時から4時
場所 伊都郡かつらぎ町丁ノ町2160
     かつらぎ総合文化会館(あじさいホール)1階AVホール
対象者 企業関係者・県民の皆様

第1部 基調講演 「子どもの虐待防止を考える」
講 師 柳川 敏彦さん(和歌山県立医科大学保健看護学部教授)
第2部 シンポジウム 「地域で支える子育て -子育てを楽しむために-」
パネリスト:
家本めぐみさん(toddle(タドル)わかやま代表)
前迫 早苗さん(非営利活動法人 橋本おやこNPO理事長)
松本 肇さん(かつらぎ町教育委員会 家庭児童相談員) 
コーディネーター:
柳川 敏彦さん(和歌山県立医科大学保健看護学部教授)
◎ねらい  
子育てとは、両親にとってやりがいのある、そして大切な仕事の1つです。
しかし、私たちの育児スタイルは、母親偏重にあり、育児を楽しむ余裕が
ありません。お母さん、お父さん、「子育て」を楽しんでいますか?「子育て」
を学んだことがありますか?今回の研修では、お子さんとご両親の好ましい
関係とは何かを考え、地域における子育てのあり方を探っていきたいと思います。

参加費無料・手話通訳あり

問い合わせ
伊都地方人権尊重連絡協議会事務局
TEL 33-4900 FAX 33-491
お問い合わせ先:橋本市 市民生活部 人権・男女共同推進室
和歌山県橋本市東家一丁目1番1号
電話:0736-33-1111(代) 

★ブログ管理人の蛇足:
家庭で虐待され、児童養護施設に入り、そこでは理事(会社で言う取締役)と
職員から「ただで面倒みてやっている」などと言葉による暴力を受け、「怪我を
しないように扱え」という施設の伝統に従い、理事は些細なことを理由にあげて
子どもを引きずり出したりする。引きずっても 確かに怪我はしない。
すべての児童養護施設で こうなのではないけれど、遅れた県の遅れた施設では
こうであった。児童養護施設出身者の中には のちに刑務所や少年院に入る人も
多いと聞いています。

  


Posted by 伝兵衛 at 13:14Comments(0)児童虐待

2014年08月11日

虐待2000日/産経新聞夕刊連載

2014年8月11日の記事はNo.18。題は「妙子と小兄」。
見出し:女運 悪かった父の死。
妙子の父親は 幼いころ孤児院で育った。
妙子16歳、昭和63年 盛夏、父は死んだ。妙子らと
同様に父の両親は離婚していたが 葬儀には、生き別れた 
その母親も来ていた。酷いことを葬儀の場で言う祖母だった。
妙子は 父の妻に虐待された。父は女運が悪かった。
父の人生を振り返り、妙子はそう思った。
★ブログ管理人の蛇足:新聞をコンビニで立ち読みするのは 
勇気の要ることですが 夕刊2ページの下に連載されて
いるのを 読んでください。

写真 by SACHI

  


Posted by 伝兵衛 at 18:02Comments(0)児童虐待

2014年05月15日

いじめられた人は病気になる,後々も(上)

少年時代にいじめられたり、侮辱された人は 何年も後にも
後遺症に苦しむ。成人した後に慢性の炎症の徴候を示す 
と英米の研究者が報告した。
いじめられた時点で 被害者は苦しむだけでなく、後に
なって 睡眠障害・頭痛・腹痛などの症状を起こす。
かつて虐められた人を対象に CRPの測定をしたところ 
身体に慢性の低度の炎症が認められた。
この調査は アメリカのDuke大学の学者による。9~21歳の
1420人について長期に調査した。いじめられたことがあるか、
あるいは自分で人をいじめた経験のある人を対象に9回の
面接で尋ねた。そのうえ採血し、CRPの数値を得た。
CRPの数値は 少年時代から大人になる移行期に高くなる
ことは 既に知られている。しかし いじめられた子どもの
CRP値は 19~21歳の時期に いじめられなかった子と
比べて あきらかに高くなっていることを 研究者は確認した。
(つづく)
下記サイトから:
http://www.bild.de/ratgeber/gesundheit/mobbing/mobbing-schaedlich-gesundheit-langfristig-35938962.bild.html

  


Posted by 伝兵衛 at 09:55Comments(0)児童虐待

2012年05月25日

非暴力の伝統をもつ家庭が利他主義を生む可能性あり

児童虐待は家庭での平手打ちに始まる(下).
子どもを折檻しないと、どういう功徳が 後に生まれるか?
1980年にアメリカでユダヤ人組織に委託された調査に 
その答がある。
第三帝国の時代に ユダヤ人を匿った400人を対象にして、
この調査は 他にどんな共通点を それらの人々は持って
いるかを知ろうとした。かくまった人達は カトリック・プロテス
タント・無神論者だった。彼らは皆、暴力なしに養育された。
この育て方が実直な生き方を支えた。どのような実直な人々が 
少数派を擁護するかは 親によって決まる。
この調査は Ingrid Mueller-Muench の著作「体罰をうけた
世代。体罰用の料理用木製スプーン・籐の鞭・その帰結」
Klett-Kotta社、19.95ユーロ。に引用されている。
下記サイトから:
このサイトの一番下に写真が13枚あります。それは
Michael Hanekeの映画「白いテープ」(2009年)が示す体罰
教育の帰結と第一次大戦の前の冷血の養育を主題にする。
http://www.welt.de/kultur/history/article106216716/Kindesmissbrauch-beginnt-mit-Backpfeifen-zuhause.html

写真 by SACHI  


Posted by 伝兵衛 at 10:53Comments(0)児童虐待

2012年05月24日

児童虐待は家庭での平手打ちに始まる(上)

80年代まで東西両ドイツで 親による体罰は 効果的な養育
手段だとされていた。この考えについての 教育に関する
理屈つけは 第三帝国に由来する。
アウグスブルクの前の司教 Walter Mix は「20~30年前には
一発や二発 平手打ちするのは 全く普通のことだった」と
言った。80~90年代には 強権的な「黒い教育」に戻ることが 
共有財産であった。
すべての親が 子を殴ったわけでは ないけれど、80~90年代
に育った人にとって、親に殴られた思い出は 普通である。
上記のことに ケルンのジャーナリスト Ingrid Mueller-Muench は
いぶかしく思っている。
法律で親が子に暴力を振るうことを禁止するようになった
のは 2000年だった。(続く)
下記サイトから:
http://www.welt.de/kultur/history/article106216716/Kindesmissbrauch-beginnt-mit-Backpfeifen-zuhause.html

写真 by SACHI  


Posted by 伝兵衛 at 16:39Comments(0)児童虐待

2012年02月25日

孤児オリバー・ツイスト/チャールスディッケンズ生誕200年

生誕200年にあたり、下記サイトは英国の社会改革について述べる:
http://www.zeit.de/2012/07/Grossbritannien-Dickens

孤児オリバー・ツイストは小さい町の救貧院に居たとき、
オートミールの重湯を もう少し欲しいと言って殴られた。しかし
ロンドンでの貧困は さらに酷く、人間の退廃は一層ひどかった。
1837年に小説「オリバー・ツイスト」は発表された。ディッケンズは
社会の崩壊を警告している。

この40年にすべての先進国で 社会の不平等は拡大した。
しかし英国ほど 貧富の差の大きい国はない。グラスゴーの
労働者地区に生まれた子どもは ロンドンのケンジントンに
生まれた子どもより 13.5年、早く死ぬ。
英国の人口の最上層10%が 最下層のグループの12倍の
所得を得ている。ドイツでこの較差は 英国の半分である。下層の
子ども達は 高等教育を重視する教育政策により さらに不利に
なっている。従って 16~24歳の人の5人に一人は 失業して
いるか 職業訓練を受けられないか である。
英国のキャメロン首相は 教育改革を導入し、社会援助を変革
したが、金融業界に倫理を教えこもうという試みは 今のところ
成功していない。今、英国で 怒りは 銀行経営者に向けられて
いる。国有化された スコットランド・ロイヤル銀行の社長
Stephen Hester は963000ポンド(約1億2100万円)の年間
特別報酬を求め、市民の怒りをかった。
イギリス人は根本的に考えを変えなければならない。ディケンズの
別の小説 クリスマスキャロルの主人公のように。 
  
タグ :イギリス


Posted by 伝兵衛 at 09:04Comments(0)児童虐待

2012年02月07日

強姦・トラウマ後遺症・頭の中の汚物(上)

強姦被害者の多くは 長期間、汚されたという感じを持つ。
頭の中に 消しても消えない像が浮かぶ。
グドルン(57歳)は この感情に襲われると 風呂に入り、
何度も洗う。肌に付いた汚れは誰にも見えない。父に
強姦され、後に夫に強姦されるたびに、汚れが張り付き、
悪臭を放った。グドルンは他の29人の女性と一緒に 
フランクフルト・アム・マイン大学の調査に参加している。
彼女達は みな 子どもの頃に性的暴力を受け、その後 
何十年たった後もなお 汚されているという気持ちに苦しんでいる。
臨床心理士 Kerstin Jung は同僚と共に 汚されてという
心像に取り組む治療を展開してきた。カナダの心理学者
Nichole Fairbrother と Stanley Rachmenが示すように、
強姦された人の約60%は そういう感情をもつ。
この感情は 強姦のもたらす典型的な結果だということを 
多くの患者は まったく知らない。彼女達は 自分が異常だから 
そう思うのだと思い込む。フランクフルト大学で 彼女達は 
この感情を制御することを学ぶ。
グドルンは外へ出ても、他の人と接触するのを避ける。他人の
肌に触れないように 市内電車には 乗らない。他の人に
見られているように思って、落ち着かなくなり、ついに職を失い 
家から出られなくなった。
「私が こう感じるということは 実際にそうだから そう感じる
のだ」と思い込み、自己像に悪い影響が及ぶ。
グドルンは ナイフで肌を切り、汚れを取り去ろうとした。別の
患者は 体内も汚れていると思い、絶食した。患者の1/5は 
洗うことに 激しい強拍感情をもち、金ブラシで からだを
洗ったりする。孤立感は 深い。
治療において 患者は現実と夢想を区別することを学ぶ。
たとえば最初の練習では インターネットで検索し 肌は 強姦
されてから どれほどの頻度で 新しい肌になっているかを知る。
4~6週間ごとに 全身の皮膚は新しくなる。と言うことは 
グドルンの肌は252回 新しくなっている。(続く)
下記サイトから:
http://www.zeit.de/2012/04/Waschzwang-Therapie

写真 by SACHI  
タグ :強姦


Posted by 伝兵衛 at 18:57Comments(0)児童虐待