QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです

和歌山の情報発信
ブログポータル

ログインはTOPページで
私も作ってみる


[PR]ちらし印刷選挙用品
[PR]和歌山ネットチラシ
[PR] 和歌山情報ブログでチェックイコラブログ
[PR] 商品ページ1ページからリニューアル!!楽天ヤフーOK!現在キャンペーン


アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 5人
プロフィール
伝兵衛
伝兵衛
オーナーへメッセージ

2017年08月23日

ゴミ収集で生きるinサンパウロ・連載2(写真集


下記サイトに写真11枚:
http://www.spiegel.de/fotostrecke/sao-paolo-das-leben-der-schrottsammler-fotostrecke-150919-7.html
写真6.左の子は8歳、右の子は14歳。シルバは
その年齢の頃、一人で路上生活していた。薬物
(クラック)をやって 刑務所に入った。
7.子どもたちはシルバが薬物を絶つのに力に
なってくれた。「あの生活から離れるのに大変
な力が要った。しかし子ども達がいたので 薬
から逃れなければ ならなかった」とシルバは
言う。
8.夜には子どもも一緒にゴミ集めに行く。この
夜は息子のブライアンと甥二人も荷車に乗って
いる。写真にある子どもは皆10歳未満だ。犬の
ボビーも付いていく。
9.数百万本の木を切らないで済んだ。リサイクル
紙1トンは立木22本を伐採から守ったことになる。
10.シルバは中学卒業の資格をとった。さらに
高校へ行く。その後、大学へ行って獣医になる
つもりだ。
11.中学の卒業式:「小学校は3年で退学した。
大人になって 今 中学を卒業した。私なりに
頑張った。大きな成果だ」。彼女の腕に入墨が
入っている。(おしまい)


  


Posted by 伝兵衛 at 09:11Comments(0)薬物依存症体験談

2017年08月22日

ゴミ収集で生きるinサンパウロ・連載1(写真集


下記サイトに写真11枚:
http://www.spiegel.de/fotostrecke/sao-paolo-das-leben-der-schrottsammler-fotostrecke-150919-7.html
写真1.スラムの女性の奮闘努力。
ファブアナ・シルバは暴力的継父から逃れた
とき、7歳だった。彼女はサンパウロの麻薬
の淵・クラック村に落ち着いた。(クラッ
ク:高純度の結晶上コカイン)。今 彼女
は38歳になった。ごみ収集で生活している。
写真2.彼女はサンパウロ中、荷車(リアカー)
を引いて歩く。荷物は400キロ以上(軽トラを
引いて歩くのだ)。
3.ゴミ収集車が残していったゴミを集める。
4.リサイクルできる物を業者に売って、一日に
約32ドル稼ぐ。
5.1日32ドルで スラム街にある二室のアパー
トで生きていける。三人の子どもと暮らして
いる。(つづく)


  


Posted by 伝兵衛 at 09:16Comments(0)薬物依存症体験談

2016年07月16日

エイミー・ワインハウスの映画

日本経済新聞2016年7月15日(金)夕刊から抜粋:
見出し:成功の裏で崩壊する歌姫。
(ライター:岩永久美さん)
「AMY エイミー」は 27歳で酒と薬物のため無残な御最期をとげた
歌手についてのドキュメンタリー映画。
作品の中心には 彼女がマスメディアに登場して時の映像や友人が
撮ったフィルムが使われている。更に マネジャー・友人・両親・
ドラッグカウンセラーなど関係者のコメントが織り込まれている。
音楽好きなだけの まともな女性が薬物でボロボロになってい
く痛ましいプロセス。
彼女の人生後半はスターの転落でもあったが、不運な環境で
個人が もがいていたケースであり、助けようと思えば助けられた。
本作は安易な同情より無念の想いを誘う。人を見る眼の温かさと、
奥行きを持った作品だ。2時間8分。
7月16日からシネ・リーブル梅田ほかで上映。

写真は エイミーが好きだった和歌山ダルクのスタッフ。  


Posted by 伝兵衛 at 18:47Comments(0)薬物依存症体験談

2016年07月06日

回復への経過・木津川ダルクから

木津川ダルクのフェイスブック6月15日のカキコミを 同ダルクの
ご了解を得て、貼り付けさせていただきます:
★自分も変わりたい!仲間からのメッセージ

ここに来て、もう1年4か月。自分でもここにいると言う現実に冷静に考える
と信じられません。産まれて初めて手錠をかけられた時、「なんで、俺が…。」
と、思った反面、「やっと終わった。」と、思いました。今までの人生を振り
返ってみると、クスリと出会ってからクリーンと呼べる期間はありません
でした。もう、約十年以上の時間が過ぎていました。覚醒剤に出会った
のも必 然的な運命だと思います。

小さいころは、体も小さく、弱く、精神的にも弱い子供でした。だから、自分を
守る為に、スポーツで自分を表現したり、周りに合わせて笑ってたような
気がします。とりあえず、良い位置にいようと必死でした。中学生になると、
サッカー、万引きなどで、自分の立ち位置を守り、煙草をふかし、高校に
入ると、サッカーを簡単に辞め、スケボー、煙草、バイク、ファッション、
夜遊び などを適当にこなし、適当に停学になり、適当に卒業しました。
当時から、マリファナ、覚醒剤を使う友達はいましたが、マリファナは
身体に合わず、覚醒剤は、さすがに怖かったし、「覚醒剤やめますか?
人間やめますか?」というCMが強烈すぎて、やる気になれませんでした。
かと言って酒も全く受けつけず、自分と薬物は無縁の人生だと思って
いました。思えばその時に手を染めておけば、傷は浅かったかもしれ
ません。合法ドラックと言われるクスリに出会ったのは二十代半ばでした。
初めてキマるという快感を覚えてからは、クスリは人生の一部になって
いました。そのころ覚えた合法ドラックは、ほとんど覚醒剤に近かった
ように思います。合法ドラックが違法になり たどり着いたのは覚醒剤でした。

逮捕されたとき、周りに残っていたのはアディクトだけでした。アディクト
同士で仕事をして、 アディクト同士で遊び、アディクト同士で生活して
いました。完全に共依存の関係でした。そのしがらみは、木津川ダルクに
来てからも消えませんでした。かたち上、ひとり親方だった僕は途中で
ケツ割るなと一番仲の良かった先輩に詰められました。留置所で祖母の
死を知り、木津川ダルクに行くと決心し、生き方を変える決断をしました。
話し合いには、施設長に付いて来てもらいました。結局、話に折り合いが
つかないまま帰っていきました。

木津川ダルクの仲間はその時温かく声をかけてくれました。今は出て
行った仲間や、刑務所に行った仲間もいますが、僕を受け入れてくれた。
それがここに残った一番の理由かもしれません。

木津川は本当に田舎で、京都とありますが、ほとんど村に近いところ
です。最初はここの生活が苦痛で、親にお金を手紙と一緒に送って
もらったり、昔の後輩の家に金を借りに行ってパチンコに行ったり、
スリップもしました。でも『俺何してんのかな…』と気づくようになりました。
それを気付かせてくれたのは、共に生活をしている仲間でした。ほぼ
刑が確定しているのに、ボランティ アに行ったり、しょうもない劇
『すみません(笑)』を真面目にやったり、何より良い奴でした。

あとは先ゆく仲間の姿がかっこよく見えたからですかね。クスリを断ち、
素の自分で精一杯、今日だけを体現している仲間を見て、心のどこかで
『自分も変わりたい』と思いました。基本的に自分の性格、思考は
まだ変わっていません。すぐに落ち込んだり、すぐに怒ったり、人を
裁いたり、 不平不満を抱えたり…
でも、今まですぐギャンブルやクスリに逃げていた、狂った回路を冷ます
方法を少しずつ手に出来ました。いつも『これくらいはいいだろう』そう
やって自分を誤魔化し、自分から逃げてきました。
考えたらまだ何も終わってないし、始まってもない(笑)遅すぎるかも
しれませんが今日だけこの田舎から、一歩ずつ進んでいきたいと思います。
Nori





  


Posted by 伝兵衛 at 09:07Comments(0)薬物依存症体験談

2016年05月19日

「その後の不自由 嵐のあとを生きる人たち」

著者:上岡陽江(かみおか はるえ)+大嶋栄子(おおしま えいこ)。
2010年 医学書院、261p. 当時の値段2100円。

依存症の生きづらさと、薬をやめたその後の生き方について
書かれています。

前の和歌山ダルクの隣の庭にあった花。
ジャスミンだったらしい。
  


2016年01月19日

クリスタルメス(あるいはメタンフェタミン)(7)

19歳のときコーラは初めて妊娠した。コーラは週に5回クリスタルメスをやった。
基幹学校(義務教育後半の課程)を中退し、画家の見習い修行をした。母親が
コーラを婦人科へ連れていき、超音波画像をコーラに見せた。「子どもにも
薬をやらせる つもりか?」と母親が言い、コーラは薬を止めた。そのうえ煙草も
やめた。8ヶ月クリーンでいて、子どもを産んだ。そしてウツになった。コーラは
母乳を与えられなかった。母親が赤ちゃんを引き受けた。「その時から頭の中に
再び自由が戻った」とコーラは言う。出産後2週間でコーラはまたクリスタルメスを
始めた。
コーラは母親の家から数週間も離れて、男のゴミ屋敷アパートで暮らした。この男
との間に できた子だった。この子には3ヶ月に一度あいに行った。「二人で
クリスタルメスをやって、大掃除した」。二人は定期的にチェコへ行き、メスを
持って帰った。この売買で一月に5000ユーロ稼いだ。(つづく)
下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/abhaengig-von-crystal-vater-muttermeth-1.2721404-3

  


Posted by 伝兵衛 at 15:17Comments(0)薬物依存症体験談

2016年01月18日

クリスタルメス(あるいはメタンフェタミン)(6)

コーラとラフルは同じ地区の出身だ。コーラは離婚した家庭で育った。
継父は暴力を振るう怒りっぽい人だった。ラルフの家庭はそうで
なくて、何でも許されていた。六年生のとき6段階評価で最下位と
下から2番目の評価の成績表を持って帰ったときでも、両親は
新しい自転車を買ってくれた。その自転車に乗って、休暇の
旅にでた。その頃、コーラとラルフはまだ知り合っていなかった。
ラルフは5歳年上だった。コーラは12歳で酒を飲み始め、その
1年後にマリフアナを定期的に吸い始めた。15歳のとき誰かが
白い粉を皿にのせて出してくれた。コーラはクリスタルメスで
なくて、「クリステル」という物だと思っていた。
クリスタルメスが社会的傾向の結果であるなら、それは高性能
パーティの結果であるとウーヴェは言う。と言うことは 村の
ディスコで 金曜夜から月曜未明まで踊り続けるという傾向の
結果である。業績を上げるのに熱心な経営者と博士課程
在学者から 遥かに離れた社会層の生活を 薬物は破壊した。
すなわち 負担の重すぎる親をもち、教育から離れた青少年を 
薬物は破壊した。(つづく)
下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/abhaengig-von-crystal-vater-muttermeth-1.2721404-3

  


Posted by 伝兵衛 at 15:02Comments(0)薬物依存症体験談

2016年01月17日

クリスタルメス(あるいはヒロポン)(5)

依存症者が過重な負担と作業能率への圧力について物語ると 
すぐに同意してくれる人が増えると言うことを 依存症者は
知っている。間違えて理解した共感から生まれる理解は 
結局、誰に対しても何ごとも もたらさない。依存症者は
自分の依存症について 何もできないのは 何故かと
いう理由づけを もたらすだけである。
嗜癖専門病院の院長ウーヴェは 患者に「初めてクリスタル
メスを使ったのはいつだったか」をよく尋ねる。驚いたことに 
初めて使ったのは 大学の期末試験の前の月曜の夜でもなく、
二重シフト勤務の入っている水曜の朝でも ない。答えは常に
「パーティの前の金曜の夕方」だとウーヴェは言う。(つづく)
下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/leben/abhaengig-von-crystal-vater-muttermeth-1.2721404-3

  


2015年10月24日

薬物依存症者が母を刺殺し懲役13年に

ドイツで母親は息子に薬物の金を渡す気にならなかった。
それで息子は寝ている母を包丁で刺殺した。犯行後、息子は 
薄笑いを浮かべながら 町をうろついていた。
州裁判所は13年の刑を言い渡し、一般の人に危害を与え
ないように精神病院に入院するように命じた。
彼は13歳のときに初めて大麻をやった。大学などへ進む
子の行かないハウプト・シューレへ入った後、さらに薬物の
泥沼に入り込んだ。クリスタルメスとヘロインをやり、軽い
犯罪をした。2012年に偏執症のため二度 入院した。
自白によれば 彼は犯行の前に幻覚に襲われ、子どもの
叫び声を聞いた。州裁判所は言う:「子どもの叫び声
が聞こえたからと言って、人を殺さねばならぬと言う
ことではない」。
下記サイトから:
http://www.faz.net/aktuell/gesellschaft/kriminalitaet/drogenabhaengiger-zu-13-jahren-haft-verurteilt-13836135.html


  


Posted by 伝兵衛 at 17:41Comments(1)薬物依存症体験談

2015年10月20日

佐賀ダルク設立6年・毎日新聞に

下記サイト(毎日新聞)に佐賀ダルクについての
記事がでています:
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi_region/region/mainichi_region-20151017ddlk41040324000c.html
佐賀ダルクには現在8人が入所している。
佐賀県警によると 今年は9月末現在で 覚醒剤取締法
違反者のうち再犯者は72.3%。全国の再犯率は2014年に
64.5%になっている。



  


2015年09月30日

FBにヘロイン依存で死んだ夫の写真。オピオイドからヘロインへ。(下

★このikoraブログの9月27日のカキコミは 鎮痛剤
オピオイドの光と影でした★

下記サイトにある写真の下の部分 VIEW SLIDESHOW を
クリックすると、幾つかの写真を見ることができる:
http://www.medicaldaily.com/dangers-drug-addiction-ohio-mom-posts-photo-dead-husband-facebook-after-he-dies-352534
◎2枚目の写真:
夫マイクは 鎮痛剤オピオイドを処方してもらったのが 始まりで、
その後ヘロインを使いだした。最近 依存症の治療を受け、うまく
いっているかのように見えた。「去年の終わりにリハビリを始め、
クリスマス前には まったく見違えるようになっていた」。
不運なことに、薬物依存症のリハビリは 常に続けなければ ならない。
マイクは歯痛のために痛み止めを飲み始めて、また依存症に戻った。
「他の人の役に立てるように 彼のことを分かちあう必要があったので
フェイスブックに書いた」。
◎4枚目の写真:
9月14日のEvaのフェイスブックのカキコミ:「今朝 町の中心街を
歩いていたら 一人の女性が泣きながら駆け寄ってきて、ハグして
いいかと尋ねた。彼女は言った:「私はヘロイン依存症で、昨日も
やり過ぎるところだったが あなたのフェイスブックを見て、
命を救われた」。二人で抱き合って 泣いた。
★アメリカの国立薬物乱用研究所によると 世界中で2640万人から
3600万人が鎮痛剤オピオイドを濫用していて、アメリカでは
250万人以上が オピオイドや関連する薬物のために不調に
苦しんでいる。 


  


Posted by 伝兵衛 at 13:09Comments(0)薬物依存症体験談

2015年09月29日

ヘロイン依存で死んだ男。オピオイドからヘロインへ。写真(上

★このikoraブログの9月27日のカキコミは 鎮痛剤オピオイドの
光と影でした★
2015年9月14日発:
夫がヘロイン依存で死んだ後、フェイスブックに死んだ夫の写真
(棺の蓋を開けた写真)を妻は載せた。薬物の危険を訴えるために。
オハイオ州シンシナティの Eva Holland は二人の子の母親。
11年の結婚生活の末に 夫にヘロイン依存症のため死なれた。
その事を 人々の教訓にしてもらおうとフェイスブックに写真と
文を載せた。
夫婦は 幼なじみだった。夫は良い息子で、良い兄弟で、良い
友だちで、素晴らしい父親だったが、人生は時には シンドイ
ものになり、人は間違った選択をすることがある。
下記サイトにある写真の下の部分 VIEW SLIDESHOW を
クリックすると、幾つかの写真を見ることができる:
http://www.medicaldaily.com/dangers-drug-addiction-ohio-mom-posts-photo-dead-husband-facebook-after-he-dies-352534
◎一枚目の写真:一日一日を回復のための日に しないなら、
このような死を迎えることは 避けられない。この写真は フェイス
ブックで25万人にシェアされた。(つづく)

  


Posted by 伝兵衛 at 09:04Comments(0)薬物依存症体験談

2015年08月14日

薬物依存症者家族匿名会~ナラノン・報告

2015年8月14日(金)に ビッグ愛の県精神保健福祉
センター2階で開きました。和歌山市内の4人あつまりました。
次の第4日曜 カトリック屋形町教会です。
初めてのかたは1時半から、ご常連は2時から。

★「誰が来て、何を話したかは 口外しない」ことに
なっているので 書けない。それで 思い出したことを
書きます:
22年ほど前に里親になってから 13年間 児童相談所で
開かれる里親関係の集まりに行っていました。当時の
里親の集会で しばしば発言する親は 幾人かの養子縁組
の親でした。「実子のことで 児童相談所へ相談に行く
親はないだろう。養子縁組した子に 何か問題が起きても 
決して児童相談所へは行かない。そういう方針で二人の
子を育ててきた」と言う養子縁組親がいました。他には
「子どもが医者になった」と言う親や「私立の高校へ
二人かよわせている」という親も居ました。私はその
ような里親会の集会に違和感をもっていました。
児童相談所の話では「里子のことでナンギしている
里親は 夫婦の間で お互いに 相手が悪いから こう
なったと罵り合っているので そういう里親は 集会に
来ない」ということでした。私は一方的に罵られて、反論
しなかったから 児童相談所の集会に出席できていたのか
いなと思います。
しかし あの頃に ナラノンのような自助グループが
里親の間にも あれば 助かったのにとも 思います。


  


2015年07月02日

依存症当事者のブログ「サンシャイン&ムーンライト...

http://ameblo.jp/12wakayama/
「サンシャイン&ムーンライト  和歌山ダルク卒業生OGブログ~
薬物・アルコール・摂食障害で苦しんでいる仲間と、ご家族の皆様へ」
スタッフが管理人です。和歌山ダルクへ通っていた女性達が 
カキコミしています。
ikoraブログは 家族会の者が書いてます。自分の家族のことを
カキコしても 他の会員のかたのことを書いても 具合わるいので
淡白なカキコミになりがちです。上記のアメブロは当事者が書いて
ますから 面白いと言うと 失礼になりますが 大変 興味深い
文を 日替わりで お姐さんがた交代でかいてくれてます。

写真は小川芋銭の狐の行進。  


Posted by 伝兵衛 at 18:13Comments(0)薬物依存症体験談

2015年05月09日

ビリー・ホリデイ生誕100年(下)

しかしホリデイは その間に酒と薬物との闘いに ますます
深く入っていった。声はしわがれ、結婚も壊れた。1957年に
再婚したが、健康は悪くなっていった。
死の数日前に薬物所持の理由で逮捕され、警官が彼女を
病院へ送り届けた。ホリデイは葬式のための金として50ドル札
15枚を脚に張り付けていた。彼女の銀行口座には数セント
しかなかったと言うことだ。
下記サイトから:
http://www.stern.de/kultur/musik/billie-holiday-wird-100-von-der-prostituierten-zur-jazzikone-2185149.html

  
タグ :アメリカ


Posted by 伝兵衛 at 08:17Comments(0)薬物依存症体験談

2015年05月08日

ビリー・ホリデイ生誕100年(中)

後に彼女は母親と共にニューヨークのハーレム地区へ引越し、
そこでクラブやカフェを回り、仕事を探した。週給数ドルで 
あるナイトクラブで歌っていた時にたまたま1933年のある夜、
ジャズの専門家 John Hammonds がそのナイトクラブに
立ち寄り、クラリネット奏者ベニー・グッドマンと彼女との
演奏を録音するためにスタジオへ連れて行った。これが
転機になり、1934年には 350以上のレコードを出した。
そしてカウント・ベイシーや Artie Shaw などの音楽家と
ツアーに出た。
しかし1940年台の厳しい人種差別にホリデイは直面した。
カーネギーホールやメトロポリタンオペラのような有名な
劇場で公演する時に ホリデイは裏口から入るように言わ
れた。黒人の詩人 Lewis Allen がアメリカ南部での私刑裁判に
対する抗議・非難の詩を ホリデイのために書いたとき、
ホリデイはそれに曲をつけた。この曲は 彼女の最大の
ヒットになった。(つづく)
下記サイトから:
http://www.stern.de/kultur/musik/billie-holiday-wird-100-von-der-prostituierten-zur-jazzikone-2185149.html

  
タグ :アメリカ


Posted by 伝兵衛 at 18:01Comments(0)薬物依存症体験談

2015年05月07日

ビリー・ホリデイ生誕100年(上)

4月6日はビリー・ホリデイの百歳の誕生日だった。掃除婦や
娼婦として働き、苦労の末に歌手として 世界的スターに
なった。そして最後まで薬物依存症と闘った。
1959年に44歳でニューヨークの病院で亡くなった。酒と
ヘロインは彼女を完全に消耗させ、彼女の肝臓を破壊した。
生誕百年を記念して CDボックスが発売されている。
1915年4月7日にボルティモアで生まれた。両親は大変 
若く、ホリデイはほとんど親戚のもとで育った。従姉妹は
彼女を虐め、近所の男には強姦された。ついにホリデイは
施設に入れられ、そこでも修道女によって虐待された。
ホリデイは施設から抜け出し、ボルティモアで掃除婦や
娼婦として生きた。娼館のレコードプレーヤーで初めて
ルイ・アームストロングやベシー・スミスのような伝説的
歌手のジャズやブルースを聞いた。(つづく)
下記サイトから:
http://www.stern.de/kultur/musik/billie-holiday-wird-100-von-der-prostituierten-zur-jazzikone-2185149.html

写真 by SACHI  


Posted by 伝兵衛 at 14:50Comments(0)薬物依存症体験談

2015年05月05日

死刑になった薬売人の最後の手紙(下)

彼が生命のきわに遺した手紙は若い人に警告となるだろう。
彼と共に処刑されたのは オーストラリア人・ブラジル人・
インドネシア人(各一人)と4人のアフリカ人。彼らは全て
薬物売買の理由で処刑された。死刑への外国からの抗議
にもかかわらず、インドネシア大統領は 増加する薬物
消費に対抗して 国家の非常事態を克服するために
死刑を執行したと述べた。
下記サイトから:
http://www.stern.de/panorama/indonesien-hingerichteter-drogenhaendler-hinterlaesst-aufruettelnden-abschiedsbrief-2190959.html

  


Posted by 伝兵衛 at 08:34Comments(0)薬物依存症体験談

2015年05月04日

死刑になった薬売人の最後の手紙(中)

「昔いた組の構成員の半分は死んでいる。残り半分は刑務所にいる。
チャンも多くの年を刑務所で過ごした。結婚式も葬式も出られ
なかったし、家族と一緒にいることもなかった。チャンのような
有罪判決を受けた者にとって、人間関係・抱擁は無いものだった」。
彼の結婚式は厳重な警備で知られる刑務所の中で行われた。
処刑の前日に彼のかつての刑務世話係と結婚した。以前は
ギャングのカシラだった この男は刑務所で牧師になった。
しかし人生を変えたけれど、死刑は変わらなかった。
(つづく)
下記サイトから:
http://www.stern.de/panorama/indonesien-hingerichteter-drogenhaendler-hinterlaesst-aufruettelnden-abschiedsbrief-2190959.html


  


Posted by 伝兵衛 at 15:55Comments(0)薬物依存症体験談

2015年05月03日

死刑になった薬売人の最後の手紙(上)

インドネシアで4月29日(水)に薬物売買犯人 Avdrew Chan
(31歳)は他の7人の薬物犯罪者と共に銃殺刑に処された。
別れの手紙で 彼は自分のような悲運を経験しないで
済ませてほしいと訴えた。
9年間 チャンは処刑を待っていた。2006年にインドネシアの
裁判所は 薬物密輸で彼を有罪とし、死刑の判決を下した。
処刑の直前にチャンは遺書を書いた。それは 懺悔であり、
若い人への警告でもあった。「私の人生は ムダに過ごした
生活だった」。Melinda Rutte 監督のドキュメンタリーのために
チャンは 若い人達に向けて最後の手紙を書いた。
「薬物がどんなに危険であるか、そして どんな影響を薬物は
君たちに与えるかを伝えたいので この手紙を書いている」。
学校では まったく普通の子どもだった。しかし教師達は 
彼を好まなかったし、他の生徒も彼をからかった。「それで 
薬物の陶酔の中へ逃げ込んだのは15歳のときだった」。
(つづく)
下記サイトから:
http://www.stern.de/panorama/indonesien-hingerichteter-drogenhaendler-hinterlaesst-aufruettelnden-abschiedsbrief-2190959.html

  


Posted by 伝兵衛 at 04:22Comments(0)薬物依存症体験談