2011年03月16日
野宿者支援の経験から ・貧困・無縁・NFO
特集〈無縁〉の肖像 月刊「春秋」2011年2/3月号
p.6~9 著者:生田武志
から抜粋:
(原文は買って読んでください。春秋社刊、定価71円
(1年分800円)
野宿者に、60代のOさんがいる。大阪の繁華街で
生活していたが、肝臓などに病気があり、体も弱って
きたので、声をかけて生活保護を受けてアパートに
入ってもらった。それまで、Oさんはダンボール
集めで生計を立てていた。一日かけて集めて、
やっと600円という生活だ。その極貧の野宿生活が、
オートロックの部屋に住んで、役所から生活保護費
12万円程度が毎月入る生活になったのだ。
だが、しばらくすると、Oさんは「部屋にいても
話す相手がいなくて、寂しくて仕方がない」と言う
ようになった。
ダンボール集めをまた始めるようになった。稼いだ
お金は他の野宿仲間にあげてしまう。
働いていると、生活に張りがあるし、野宿仲間とも
会えるので、部屋でひとりでいるよりもずっといい
らしい。しかし、何ケ月かそういう生活をしたあと、
Oさんは部屋を捨てて、野宿に戻ってしまった。
ぼくは1986年から、大阪市西成区を中心に、夜回り
や公園での交流会、電話などでの生活相談など、
野宿者や生活に困窮した人たちへの支援活動をしている。
野宿に戻る理由は人によっていろいろだが、その
根っこにはおそらく「社会的な孤立」がある。
★路上の「豊かさ」
生活保護は社会的な孤立を生みだしやすい。保護を
受けていると、働いても収入のほとんどを役所に
返すことになる「労働の刺激・励み」の疎外、
生活保護を受けるときに「あなたの親族の○○さんが
生活保護を受けますが、そちらでなんとかでき
ませんか」と聞いていく「扶養紹介」による親類関係
の破壊、そして、「生活保護は恥」という社会的汚名
があるために近所の人と関係を作るのが難しいと
いう近隣関係の疎外。
つまり、生活保護は受給者から「労働」「血縁」
「地縁」を断ち切る有効な制度として機能して
しまっている。
一方、野宿の現場でたびたび言われるのは、
「路上の関係の豊かさ」ということだ。特に、野宿の
仲間どうしの助け合いがよくあって、誰かが病気に
なると、周りの人たちが声をかけたり食べ物を持って
行って助け続ける、ということがよくある。
野宿という「経済の貧困」から、社会的孤立という
「関係の貧困」に移ってしまうのだ。憲法や生活保護法
で言う「健康で文化的な最低限度の生活」は、単に
「食べていけるお金があること」だけでは成り立たない。
自分自身がこの社会で意味のある存在である事を
感じる「つながり」が必要なのだ。
われわれの社会は、「きずな」を意識的に作り出さなけれ
ばどんどん人が孤立し、白分か生きている意味を実感
できない状況になっているのだ。
■旧縁の限界点~三つの代償
「無縁」化には、こうして今まで人をつないでいた
「社縁」「血縁」「地縁」が機能しなくなったという
問題がある。だが、それは同時に「会社人間」「母子密着
(専業主婦の孤立化)」「学校化社会」という、かなり
いびつな、そしてあまりに日本的な人間類型を生み出す
代償の上に成立していたことも疑えない。そして三者は
密接に関わり合っている。それが限界点に達したのだ
とすれば、従来の「縁」の復活に希望を託すのは
不可能であり、無意昧だろう。
■NFO~他人と他人の新たな関係
ひきこもりなどの若者を支援するNPO法人
「ニュースタート」は、その活動理念を「家族をひらく」
ことと位置づけている。
ぼくはそれを一つのヒントに、NFO(Non‐Family‐Organization)
という概念を考えた(「フリーターズフリー」創刊号)。
「家族」に対してNFOが存在しえるのではないだろうか。
それは、従来の「家族」の延長ではなく、「他人と他人と
が生活の一部を共有し支えあう」関係を意味している。
p.6~9 著者:生田武志
から抜粋:
(原文は買って読んでください。春秋社刊、定価71円
(1年分800円)
野宿者に、60代のOさんがいる。大阪の繁華街で
生活していたが、肝臓などに病気があり、体も弱って
きたので、声をかけて生活保護を受けてアパートに
入ってもらった。それまで、Oさんはダンボール
集めで生計を立てていた。一日かけて集めて、
やっと600円という生活だ。その極貧の野宿生活が、
オートロックの部屋に住んで、役所から生活保護費
12万円程度が毎月入る生活になったのだ。
だが、しばらくすると、Oさんは「部屋にいても
話す相手がいなくて、寂しくて仕方がない」と言う
ようになった。
ダンボール集めをまた始めるようになった。稼いだ
お金は他の野宿仲間にあげてしまう。
働いていると、生活に張りがあるし、野宿仲間とも
会えるので、部屋でひとりでいるよりもずっといい
らしい。しかし、何ケ月かそういう生活をしたあと、
Oさんは部屋を捨てて、野宿に戻ってしまった。
ぼくは1986年から、大阪市西成区を中心に、夜回り
や公園での交流会、電話などでの生活相談など、
野宿者や生活に困窮した人たちへの支援活動をしている。
野宿に戻る理由は人によっていろいろだが、その
根っこにはおそらく「社会的な孤立」がある。
★路上の「豊かさ」
生活保護は社会的な孤立を生みだしやすい。保護を
受けていると、働いても収入のほとんどを役所に
返すことになる「労働の刺激・励み」の疎外、
生活保護を受けるときに「あなたの親族の○○さんが
生活保護を受けますが、そちらでなんとかでき
ませんか」と聞いていく「扶養紹介」による親類関係
の破壊、そして、「生活保護は恥」という社会的汚名
があるために近所の人と関係を作るのが難しいと
いう近隣関係の疎外。
つまり、生活保護は受給者から「労働」「血縁」
「地縁」を断ち切る有効な制度として機能して
しまっている。
一方、野宿の現場でたびたび言われるのは、
「路上の関係の豊かさ」ということだ。特に、野宿の
仲間どうしの助け合いがよくあって、誰かが病気に
なると、周りの人たちが声をかけたり食べ物を持って
行って助け続ける、ということがよくある。
野宿という「経済の貧困」から、社会的孤立という
「関係の貧困」に移ってしまうのだ。憲法や生活保護法
で言う「健康で文化的な最低限度の生活」は、単に
「食べていけるお金があること」だけでは成り立たない。
自分自身がこの社会で意味のある存在である事を
感じる「つながり」が必要なのだ。
われわれの社会は、「きずな」を意識的に作り出さなけれ
ばどんどん人が孤立し、白分か生きている意味を実感
できない状況になっているのだ。
■旧縁の限界点~三つの代償
「無縁」化には、こうして今まで人をつないでいた
「社縁」「血縁」「地縁」が機能しなくなったという
問題がある。だが、それは同時に「会社人間」「母子密着
(専業主婦の孤立化)」「学校化社会」という、かなり
いびつな、そしてあまりに日本的な人間類型を生み出す
代償の上に成立していたことも疑えない。そして三者は
密接に関わり合っている。それが限界点に達したのだ
とすれば、従来の「縁」の復活に希望を託すのは
不可能であり、無意昧だろう。
■NFO~他人と他人の新たな関係
ひきこもりなどの若者を支援するNPO法人
「ニュースタート」は、その活動理念を「家族をひらく」
ことと位置づけている。
ぼくはそれを一つのヒントに、NFO(Non‐Family‐Organization)
という概念を考えた(「フリーターズフリー」創刊号)。
「家族」に対してNFOが存在しえるのではないだろうか。
それは、従来の「家族」の延長ではなく、「他人と他人と
が生活の一部を共有し支えあう」関係を意味している。
Posted by 伝兵衛 at 16:27│Comments(0)
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