2017年09月29日
老いて耄碌するのは良いことだ
大井 玄、”老耄という恵み”、月刊みすず
2017年8月号、p.38~44.から抜粋。
1980年代前半、認知能力の衰えた高齢者が
幻覚、妄想、夜間せん妄などの周辺症状(現在
ではBPSD、Behavioral Psyachological
Signs of Distress と呼ばれる)をどのような状
況で現すかを調べていた。
結論を言えば、周囲との人間関係がよければ、
調査地が長野、東京、沖縄のいずれにおいても
周辺症状を起こす割合がずっと少なくなるのだ
った。
その典型といえる例を、1978年沖縄県佐敷村で
の調査報告が示していた。琉球大学医学部の
真喜屋浩医師は 同村の高齢者708人すべてに
ついて精神科的評価をおこなったが、その約4
%はあきらかに老年性痴呆と診断できるものだ
った。
びっくりしたのは、その「痴呆老人」たちに
うつ状態、幻覚、妄想などの周辺症状を呈する
人がまったくいないことであった。
なぜなら、同じころ行われた東京都の調査では
「老人性痴呆」の有病率は約4%だが、その半
分ぐらいには周辺症状があり、2割近くに夜間
せん妄があった。しかも、認知能力が低下して
いないのに、うつ状態にあるため呆けていると
思われている老人が多くいたのである。
真喜屋は、佐敷村では敬老思想が強く保持され
老人は尊敬され暖かく介護されているから精神
的ストレスがなく、「周辺症状」を伴わない
「単純痴呆」にとどまるのではないかと推察し
ていた。
真喜屋のいう敬老思想は、言語文化において顕
著だった。王族貴族はもとより、田舎の農村の
言葉でさえも敬語の体系が整っているのであっ
た。(★ブログ管理人の蛇足:和歌山弁の敬語
は戦後、滅んだ。敬老思想も それに伴い減っ
てしまったのか どうか?)
年長になればなるほど尊敬される。自分の誇り
が傷つけられることが少ない。そこには認知能
力の低下がもたらす「実存的不安」が生じない。
次に何は起こるのか判らないときに生ずる、不
安がないのである。
都立松沢病院の認知症病棟で患者を診るように
なって不思議に思ったことの一つは、癌を患う
のに、病気についての不安や苦痛を訴える人が
いないことだった。
がんで死ぬ過程は苦痛が激しいため悲劇と見な
されることが多い。しかし癌研究会病院病理部
の北川知之部長は、超高齢者では苦痛のない穏
やかな死をもたらす「天寿がん」がふつうに見
られると報告していた。彼の言う超高齢者とは
男85歳以上、女90歳以上だ。
基本的に、運動器は100年もつようには設計さ
れていない。同様に自分の置かれた状況を認知
し、生存に適する意識と行動を選択する意味で
の感覚器つまり中枢末梢神経系にも耐用年数が
ある、100年もつようには 自然は作ってはい
ない。
老耄は何のためにあるのか。死ぬためである。
それは、恐怖という情動的苦痛も身体的苦痛も
なく逝くために整えられた生理現象としか思え
ない。
社会的動物において真の意味の「恵み」である
ためには 沖縄県佐敷村で見られたように、
敬意のこもったケアが必要なのであろう。

Posted by 伝兵衛 at 15:36│Comments(0)
│こころのケア
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