2011年10月31日
ライファーズ(終身刑受刑者)償いと回復の道標8(その一)
LA-ワッツ
坂上 香(さかがみ かおり)津田塾大 准教授、映画監督。
月刊「みすず」2011年10月号 p.38~49から抜粋。本文は
買って読んでください。315円。1年ほど経ったら この連載は
本になると思います。
映画「Lifers ライファーズ 終身刑を超えて」の完成から
すでに四年が経った。
その映画の主人公の一人 ケルビン・ゴーシュンと再会した。
四年前までドノバン刑務所に収容されていた元ライファーズ
(無期刑、もしくは終身刑受刑者)の一人である。
三年前から、出身地のLAに戻り、アミティの社会復帰施設で
スタッフをしていた。
再び撮りたいと思い始めたのは、三年ぐらい経った頃だった
ろうか。その間、映画の上映会や関連イベントを通して、一般の
観客の反応に直接触れたり、日米の「当事者」と出会ったり、
更生に携わる人々と知り合うことで、さらなる償いや回復の旅
の必要性を、私自身が実感していったのだと思う。
|
「当事者」には励まされることが多かった。完成直後には
試写会を東京、大阪、京都の三ヵ所で行ったが、そのいずれに
おいても、日本全国に拠点をもつ薬物依存症者の回復施設
「ダルク」のメンバーが駆けつけ、無償で手伝ってくれた。
坂上 香(さかがみ かおり)津田塾大 准教授、映画監督。
月刊「みすず」2011年10月号 p.38~49から抜粋。本文は
買って読んでください。315円。1年ほど経ったら この連載は
本になると思います。
映画「Lifers ライファーズ 終身刑を超えて」の完成から
すでに四年が経った。
その映画の主人公の一人 ケルビン・ゴーシュンと再会した。
四年前までドノバン刑務所に収容されていた元ライファーズ
(無期刑、もしくは終身刑受刑者)の一人である。
三年前から、出身地のLAに戻り、アミティの社会復帰施設で
スタッフをしていた。
再び撮りたいと思い始めたのは、三年ぐらい経った頃だった
ろうか。その間、映画の上映会や関連イベントを通して、一般の
観客の反応に直接触れたり、日米の「当事者」と出会ったり、
更生に携わる人々と知り合うことで、さらなる償いや回復の旅
の必要性を、私自身が実感していったのだと思う。
|
「当事者」には励まされることが多かった。完成直後には
試写会を東京、大阪、京都の三ヵ所で行ったが、そのいずれに
おいても、日本全国に拠点をもつ薬物依存症者の回復施設
「ダルク」のメンバーが駆けつけ、無償で手伝ってくれた。
上映中、彼らのなかには会場の出入りを繰り返す人が少なからず
いたが、聞いてみるとあまりにも自分の抱える問題と近すぎて、
凝視できないという。「最後まで見られるようになりたい」。そんな
台詞をあちこちで聞いた。かと思うと、最初から主人公に希望を
感じたり自分を重ね合わせたりして、各地の上映会に何度も何度も
足を運んでくれる人もいた。一般の観客のなかにも、自ら元受刑者や
問題行動のある当事者だとカミングアウトする人がいて、会場自体が
ある種サポートダループ的な場になったこともある。
会場に足を運んでくれた「当事者」のなかには、受刑者の家族や
犯罪被害者も含まれていた。同じ会場に死刑囚の家族、別の
事件で殺された遺族、元受刑者が同席していることもあった。
この映画は、一般市民からの寄付によって成り立っていた。
映画の封切りと同時に、刑務所や少年院から上映会の間合せが
続いた。最高裁判事を含む法務省の上層部向けの上映会を企画して
くれる役人や、少年院で率先して上映会を開いてくれた院長もいた。また、
矯正現場の職員のなかには、映画館に直接足を運び、質疑応答の場で
自らの立場を名乗って、現場のジレンマや思いを投げかけてくれる人もいた。
当時京都刑務所に勤務していたその職員は、上司に掛け合い、
二千人の受刑者向けの上映会を数カ月のうちに実現した。
日本の刑務所で自主製作映画を上映したのは、しかも、受刑者向けに
行ったのは、たぶんここが初めてだったのではないかと思う。
さらには、第一話で触れた「島根あさひ社会復帰促進センター」では、
アミティのプログラムがすでに導入されて三年が経つが、事の発端は、
同センターの設立に関わった関係者がやはりこの映画を見たことだった。
これについては 下記を参照:
歌代正「異床同夢―同じ夢を追う仲間として 島根あさひ社会復帰
促進センターでの官民協働の取組」『刑政』120(11)、2009年、46-57p。
いずれも、それまでは考えられなかったことである。日本の矯正現場では
どんな小さなことでも、前例のないことを実行するのは至難の業だからだ。
いたが、聞いてみるとあまりにも自分の抱える問題と近すぎて、
凝視できないという。「最後まで見られるようになりたい」。そんな
台詞をあちこちで聞いた。かと思うと、最初から主人公に希望を
感じたり自分を重ね合わせたりして、各地の上映会に何度も何度も
足を運んでくれる人もいた。一般の観客のなかにも、自ら元受刑者や
問題行動のある当事者だとカミングアウトする人がいて、会場自体が
ある種サポートダループ的な場になったこともある。
会場に足を運んでくれた「当事者」のなかには、受刑者の家族や
犯罪被害者も含まれていた。同じ会場に死刑囚の家族、別の
事件で殺された遺族、元受刑者が同席していることもあった。
この映画は、一般市民からの寄付によって成り立っていた。
映画の封切りと同時に、刑務所や少年院から上映会の間合せが
続いた。最高裁判事を含む法務省の上層部向けの上映会を企画して
くれる役人や、少年院で率先して上映会を開いてくれた院長もいた。また、
矯正現場の職員のなかには、映画館に直接足を運び、質疑応答の場で
自らの立場を名乗って、現場のジレンマや思いを投げかけてくれる人もいた。
当時京都刑務所に勤務していたその職員は、上司に掛け合い、
二千人の受刑者向けの上映会を数カ月のうちに実現した。
日本の刑務所で自主製作映画を上映したのは、しかも、受刑者向けに
行ったのは、たぶんここが初めてだったのではないかと思う。
さらには、第一話で触れた「島根あさひ社会復帰促進センター」では、
アミティのプログラムがすでに導入されて三年が経つが、事の発端は、
同センターの設立に関わった関係者がやはりこの映画を見たことだった。
これについては 下記を参照:
歌代正「異床同夢―同じ夢を追う仲間として 島根あさひ社会復帰
促進センターでの官民協働の取組」『刑政』120(11)、2009年、46-57p。
いずれも、それまでは考えられなかったことである。日本の矯正現場では
どんな小さなことでも、前例のないことを実行するのは至難の業だからだ。
Posted by 伝兵衛 at 15:55│Comments(0)
│薬物依存症
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。